昭和40年02月15日 朝の御理解
「神徳の中に生かされてあり」とか、「神の中を分けて通りおるようなものじゃ」とか、教祖の神様は、神様の働きの実感をそういうふうに言っとられますね。「神の中を分けて通りおるようなものじゃ」「神徳の中に生かされてあると」神徳の中に生かされてあるんだなと言う事を又は、「神の中を分けて通りおるようなものじゃ」と言う事を、本当に分からして頂いたら、それがお蔭であり、それが極楽であり、それが人間の真実、幸せだと、私思うです。ね、
そうでしょう、神徳の中に生かされておるんだなぁと。例えて云うならば、お風呂に入らせて頂いてから、ひたひたとそのお湯の加減の心よさというものが、この体に感じられるように神徳の中に、神徳というお風呂の中に入っておるような実感と云うものがです、感じられたらそれは幸せ。これが一番の幸せ。ね、何処へ居ろうと何をして居ろうと、本当、神様の中を分けて通りおるようなものじゃと。
そういう実感の中にですね、だったら我情もいう事もいらなければ、我欲も言う事もいらない。我情を募らせる事もいらなければ、我欲をいやが上にも、心の中に感ずる事はいらない。所がね信心をさして頂きますと、所謂ここには信心の稽古に通うてくると仰る。稽古に通うてこらして頂いておると、成程この世の中に遍満しておられる神様の働きというものをです。
説明を受けますと成程そんなもんだろうなぁと、と言う事が分かるでしょうが。ね、この世の中に、神の栄光を受けない物は何一つとてない。神の恵みを受けなければ、自分は生きていかれない様な事も分かる。頭で、ね、成程心にもそれを感じるようになる。そこを皆がどういうですか、頭じゃ分かっておるとですばってんね、とか心では有難いと思うとりますけれどもち言うでしょうが、信心の稽古をさせて頂くようになると、やっぱそこが分かってくる。
けれども所謂神徳の中に生かされてある、いわばお湯の中に入って、いわばあの加減のよいお湯の中にです、つからせて頂いておるような実感はないでしょうが。ね、神の中を分けて通るようなものじゃと言う事をです、本当に例えば薮の中から薮の中を、こうやって分けて通る時に、薮のこの笹なら笹の音がです、ザワザワザワザワとこう分けて通りおるようなそう言う様な実感がないでしょうが、本当この実感を頂かして頂く為に、お互い信心の稽古をせんならんですばい。ね、
信心の段々稽古をさせて頂きよりますからです、それが説明を受ける事によって、御理解頂く事によって、成程と頭では分かってくるようになり、ね、心にも感ずるようになり、頭には分かっておりますけれども、心には分かっておるんだけれども、と言う様な所迄はいくんですけれども、それから先があのその実感というものを持って神徳の中に生かされてありという、神の中を分けて通りおるような、実感という物が感じられんのは、どういう所かという。
昨日伊万里から、皆さんお参りされている中に、吉冨さんっていうて、これは私何度随分前、7代か8代前から続いておる、何とか屋さんとかいったですよね、あちらの吉冨さんは、大きな食料品の問屋をなさっておる。お酒店さんをなさっておられる。所がまぁ大変な大きなお店でもあり、古いのれんを持っておられるんですけれども、最近は非常に困っておられる。息子さん達も何人もおられて、もうそりゃあの伊万里の教会の建設時代からの御信者さんらしいんだそうですね。
お爺さんあたりから、その教会ができる時なんか、もういわば大変な功労者なんですね。所が現在はまぁいうならば段々にっちもさっちもいかないと言う様な、難儀な中に竹内先生を通してから、椛目に御縁頂かれておる。お婆さんって方が大変熱心な方らしい。で奥さんというのは、あんまり教会にはお参りした事のない方だったけれども、もうお婆さんはもう随分お年で休んでおられるんでしょう。
それからここへお参りされる吉冨さんが幾つぐらいでしょうかね、60ぐらいでしょうか、54ぐらいの方です婦人の方です。まぁ子供さんの中にも、様々な難儀な病気を持っておられるような方があったり、お店の方が具合いよくいかなかったり、所がですね、お参りされて来るようになってから、その段々おかげを頂いてきた。昨日なんかこうお届けをされますのに、本当に思うて見れば思うて見る程、椛目に御縁頂いて参りましたら、あれもおかげであった。
是もおかげであったこういうふうな所に迄、神様のお働きを頂いておるんですという所が分かってくる。「おかげ頂いておられますなぁ」と私「本当にこの事がしっかりお礼申し上げねばいけませんばい」って「本当におかげです」だからその「おかげ頂いております」と云う実感の中にですね、又おかげが現れてくるとですから、と言うて話した事ですけれどね。
これはあの昨日権藤さんが御祈念の後参って見えましてね、この頃から娘さんの事で御縁頂いて、何回でしょうかまだここへ4、5回ぐらいしかお参りなりません。今朝「朝の御祈念にお参りするけん、お父さんあんたバイクに乗せてってくれ」と言うち「お前が修行するとに、俺達起こさんでもよかじゃ」と言うて申しますもんじゃけ、「本当おかげをおかげと分かりませんもんじゃからのう。もう信心を分からんもんばっかり」と言うてからその【 】おかげの実感はしてある訳です。
私おかげと感じておる事、第一娘の事。もうそりゃほんと第一主人がですね、もうそりゃ本当に、ここに一里半通うて来てですね、もう一生懸命修行されて頂いておられるようなおかげを実感しておられるんですね。それもやっぱりですね、ある何ちゅうですか、あの善隣会とかですね、何かに大変打ち込まれて、それこそ一財産打ち込まれたと言うくらいに、打ち込まれた信心をしておられたですたい。
所がそのおかげを受けられなかったわけですね。ですからやっぱ私が言う事が、良く分かられんのかも知れませんですね。もうとにかく主人が信心がないから、おかげをおかげと分かられんと言われる。ね、第一あなたもう主人がこの大変給料が上がった。思いかけない金が、又入ってきた。子供の上にももうとにかく家庭が円満で、所謂ものをあんまり主人が言わなかったがもう帰って来てから。
今日は勤め先の事で、こんな事があったんだと、とても給料ども上がったげな事など、今まで言うた事なかったのに、今度は「お母さん給料ども上がるか知れんど」と言いよってから、本当に上がってから賞与なんか沢山頂けた。もうそりゃおかげをおかげと私思うばってん主人がおかげと思わん。第一はおかげ頂いておる事は、今度娘さんが結婚されるように婚約をしてあった。
まぁ両方とも気に入って、お付き合いさせてもらいよった。こりゃもうとても頭もいいしまぁ立派な相手が見つかったとゆうて、その喜んでおられた。親も娘さんも。所がですその先方の段々ここにおかげを頂くようになってから私がお話しをしておると、娘も分かると言われるですけども、以前の信心の話なんかも、やっぱ聞いておられたんでしょうね。所がそのおかげを頂いておりますという。
もう本当に広大なおかげを頂いたと思います事は、その相手の人が兄弟が6人かある、所が向こうの方へずっと遊びに行かれた、ところが最近気付かれた事がですね、兄弟とももの言われんと言う事です。2、3日前お父さんが病院に入院されたと、それで毎日「あの病院においでになったですか」「行かん」明くる日も又「病院においでになったですか」「行かん」3日も4日も入院しておられるという、お父さんが苦しんでおられるというのにですね。
もう親の所へ見舞いにも行かんような男を、兄弟とも話しをせんような男を、こりゃいくら頭良頭が良かったちゃ、私は幸せにはなれんち。もうそりゃみんな深い交際をしてあったんです。例えばあちらあちらからプレゼントを送り、こちらからもプレゼントをされるとかですね、もう本当に今迄、只その奇麗な方と思うただけに、誤魔化されてる訳なんです。所がここへ御神縁を頂くようになってです、話しを聞かせて頂くようになってからです、それを愈々気付くようになった。
だから私「前の方とは絶交するから、お母さんそのつもりでおってくれ」と言った様な事を申します。私も親としてからほんにそりゃ、まぁ家にも泊まって頂いた事もあってですねその本当良か娘の婿としては、良すぎるような事と思うておったけれども、それを聞かせて頂いたら、あんたの事を分からしてもろうた。これを広大なおかげっていうとじゃろうと言うて、その親子で喜んでその事を、お礼申し上げて下さいと、昨日言われるんですよ。おかげの実感そこで私、思うのにですね。
「わが身は、神徳の中に生かされる」「神の中を分けて通りおるようなものじゃ」と言う事はですね、頭で分かり心で分かり、そしてですね愈々私はおかげをもって実感しなければ駄目と言う事。本当に皆さんそのおかげだけではいかん。矢張り所謂一番大事な事は一生懸命、信心の稽古をさせて頂いてですたい、ね、説明を聞かせてもらう、所謂御理解を聞かせて頂いてです、神様の実在と言った様な事を、頭の上でも分からせてもらい、ね、心の上でも合点さしてもらい、ね。
頭じゃ分かっとるけれども、もう心では有難いおかげと言う事が分かっておるけれども、次の行動に出られないでしょう。おかげを頂いておるとその喜びがです、行動に現されるくらいの神様の実感。それが私は「神徳の中に生かされてある」と言う事だと思うです。「神の中を分けて通りおるようなものじゃ」と、おかげを頂いておると思うけれども、ね、おかげと思うけれども、頭じゃ分かっておるけれどもとゆうて、それがです日常生活の上に様々なです。
実意丁寧神信心が例えば出来んならです、ね、私は「神徳の中に生かされてある」と言う事も「神の中を分けて通りおるような」と言う様な実感もです、ないならばそれは差ほどに信心の有難さと言うものはない。そこで信心の稽古というものは、どう言う事かとうと、成程ものの道理も分からせてもらい、天地の道理を、愈々分からしてもらい、神様の御神徳というものは、こう言う事であると言う事を分からしてもらい、それをそして愈々自分のものにする為に。
信心が自分のものになる為には、その実感を自分の身に頂くことの為には、「信心は日々の改まりが第一であり」信心とは「本心の玉を磨くものぞや」とおつしゃるその、磨くと云う事に、改まると言う事に、いよいよ焦点をおかせて頂かなければです、おかげというものが現れてこない。本当の意味のおかげが現れてこない。おかげが現れて来る所に、おかげの実感。
それはお湯の中に入って、お湯の中に入っておる、あのお湯をこの肌に感じる実感、その実感がです、実意丁寧にもならしてもらやぁ、真心にもならしてもらえる事のおかげに、愈々なってきて、神様の実感、おかげの実感というものの中に浸らして頂く事が出来る。ね、例えばこういうふうに一つ考えて見て下さい、鰹節がある。ね、お茶飲み茶碗一杯のいわばカツオと、茶碗一杯のカツオと、それのだしを取ったら量も違えば、味も違うでしょうが、けれどいくら削ってもその鰹節がです。
カビの生えたごたる、もうつまらんいわば鰹節であったら、味は悪くて良い味は出らんでしょう。ね、今日はいつも私は只今申しますような事を、聞いておられるんですけれどもです、ね、今日の御理解は、ね、頭では分かっておるけれども、心に分かっておるけれども、それが行動になって現れてこないと、それは、本当の人間のおかげの実感の中にないから「神徳の中に生かされてある」実感がないから。ね、
そこから生まれて来る所の、おかげの実感がないから。そのおかげの実感を、愈々味わいの物に有難い物にする為にです、愈々本心の玉を磨き改まらせて頂くという、いわば鰹節でいうなら、その身を削るようなです、おかげを頂かなきゃ身を削るような信心ばかりでは駄目って、味が悪かならどうするですか。
例えば自分の本心の玉を磨かれ、改まれたらその心がその心を、いわば形に現すという御用にですたい、有難いと思うております。心にも有難いと思うておりますと、思うちょりますばってん、分かっちゃおりますばってん、行動に現せなかったのがです、おかげ頂かせてもろうてそのおかげの実感がです、いわば私の心を躍動的なものにする。動かなきゃおれない事になる。その動きがです家庭の御用の中に、お仕事の中に【 】の御用の中に、所謂様々な奉仕の姿の中にです現れて来る。
しかもそれが磨かれたり削られたりした物から、いわばその行動に現れて来る時に、愈々その味わいは良い味わいになってくると言う事。そうでしょういかにだから磨かなければ改まらなければ分からなければいかんかと言う事が分かるでしょう。おかげを受けなければいけないかと言う事が分かるでしょう。ね、それが分かってもです、ならこれがです愈々磨かれ、美しゅうならして頂いたそれから、削られる所のいわば鰹節であっていわば、すっきりした上品な愈々味の良い味を味わう事の出来るように、ね。
本当に「神様の中を分けて通りおるようなものじゃ」と「神徳の中に生かされてあるんだ」というです、本当に味の良い実感が、いわばこの鰹節を削ったそれから出て来てるように味わい何ともかんとも言えない。心の底から愈々有難いなぁという実感。勿体無い事じゃなぁという実感。
ほうこれが悟りちゅうもんばいいなと初めて見た。これがそげん甘かとちいとほど嘗(な)めてみた。成程甘い。ね、いわば頭で分かり心で分かり、そんな事じゃないだろうかと思う。だからみた事がある。例えば椛目へ来ると、そのおかげを頂いておられる姿を見る事が出来る。砂糖を見るようなもの、もうちょっとぐらい嘗めるような事が出来るようなお蔭を頂かれる。ね、愈々それを嘗めるだけじゃない、ほんとに食べさせ頂いて砂糖とは甘いもんだなぁと。
甘いもんだなぁという実感がですね、舌を通して感じられる。ね、私そういうふうに実感を持って感じられる所の神様。実感を持って感じられる所の御神徳の中。「神様の中を分けて通りおるようなもの」という物をです頂かしてもろうて、愈々限りない美しゅうならして頂くと言う事に、焦点をおかして貰い削らして貰えばです、愈々最高の鰹節を削らせて頂き、少し削れば少し、沢山削れば沢山の味がです頂ける。
その味わいをです、私は神徳の中と言うたり「神様の中を分けて通りおるようなものじゃ」と言ういわば極楽の実感。お風呂に入らせて頂いてひたひたと、この肌にお湯を感じさせて貰う様な、おかげの中に生活さしてもらう、信心生活があるとこう思うのです。ね、どうでもだからです、その味の良い味わいという物にふれる為に、今日私申した所をです、一つ分からなければいけない。
例えて申しますなら、権藤さんの例えを申しました、吉冨さんの例を申しました、その程度のいわば実感なら、皆さんあるでしょう。その実感が例えばお参りにもなっておればです、そのまま御用にもなっておりますですたい。けれども所謂本当に「神徳の中に生かされてあり」と言う、「神様の中を分けて通りおるような」と言う実感がないのは、味は味でも、本当に、良い味を噛み出していないと言う事が分かる。
それはまだ本当に削りようが足らんのだと言う事が分かるじゃろう。ね。本当に立派な、折角削るなら、立派な鰹節からでしかないとええ味が出らないと言う事を、本気で分からして頂いて、本気でそこに焦点をおいて美しゅうならして頂く事に、改まらせて頂く事にです、磨かせて頂く事に、愈々焦点をおかなければいけないなということを感じますですね。おかげ頂きました。